1番Aqoursらしくて1番サンシャインらしくない曲

皆さんこんにちは。いつもTwitterでしょうもないことを呟くことが日課のにしょうです。

 

簡単に自己紹介すると、1stライブで声優ユニットAqoursに(特に逢田梨香子さんに)どハマリし、2nd埼玉からのほぼ全てのAqoursのライブに通っていたものの、5thでその情熱が燃え尽きて今やほぼソロ声優の追っかけになってるオタクです。

 

そんな半ばラブライブ!を他界している僕が今でも大好きな曲が、今回テーマにした『想いよひとつになれ』という曲になります。

 

この曲はご存知の通りアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』1期11話で登場し、Aqours1stLoveLiveで披露されて以降神聖視されてきた(少なくとも僕はしていた)ものの、4thライブでの再披露以来物議を醸している変わり者な曲です。この曲について、数多あるオタク達のブログと同様にひたすら万歳三唱をあげることにしても良いのですが、少しラブライブから離れて熱が冷めた僕が思うことを書いていきたいと思います。

 

まあ結論はタイトルの通り、4thライブ以降度々披露されるこの曲は現実の『Aqours』という声優ユニットを体現する曲であるけれども、アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の物語とは相容れないものであるということです。

 

いざ本編

 

アニメでの形

まずはアニメにおける想いよひとつになれの位置づけを説明していきますが、その中でどうしてもアニメ『ラブライブ!』(通称無印)とアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の比較が必要なのでそこから入っていきます。

 

無印とサンシャインの違いとは

ラブライブ好きを自称する人なら誰もが一度は考えたことがあるだろうけれども、中々口に出して議論したがらない、そんなテーマに切り込んでみます。

 

ラブライブ!』も『ラブライブ!サンシャイン』もスクールアイドルをやる女子高生がラブライブ!という大会を目指す、そういった大枠の設定は基本一緒です。しかも話の展開の仕方や、基本的に一話ごとに話が完結していくという枠組みまで一緒です。じゃあ何か違うかというと両者ではキャラクターの動機づけの設定が異なるのです。

 

社会学には「コンサマトリー(consummatory)」と「インストゥルメンタル(instrumental)」という2つの概念があります。前者は完結する行為、そして後者は目的に対する手段に当たる行為のことを指します。例えば美味しいものを食べるという行為はコンサマトリーですが、(ダイエット等のために)ヘルシーなものを食べるというのはインストゥルメンタルであると言えます。多少の違いはありますが「手段」と「目的」という日本語に対応すると思って問題ないと思います。

 

難しい単語を持ち出してまで僕が何が言いたいかというと、『ラブライブ!』はコンサマトリーな物語であるのに対して『ラブライブ!サンシャイン!!』はインストゥルメンタルな物語であるのです。つまり、μ'sの9人はスクールアイドル活動自体が「目的」であったのに対して、Aqoursの9人にとってスクールアイドル活動は何らかの「手段」として描かれてきました。

 

μ'sのスクールアイドル活動がコンサマトリーなものであることは、1期13話の講堂での海未に対する穂乃果の台詞を鑑みれば一目瞭然です。穂乃果は学校を救うという目的よりもスクールアイドル活動自体に価値を見出していました。μ'sの象徴的な「いまが最高!」という言葉もまさにコンサマトリー性を表す単語といえるでしょう。

 

Aqoursインストゥルメンタル性については、少し説明が難しいです。おそらく多くの人はここで引っかかりを感じると思うので、今回のメインテーマである想いよひとつになれに絡めて次節でじっくり論証していきます。

 

アニメでの想いよひとつになれの役割

Aqoursの9人にとってスクールアイドルはインストゥルメンタルである、と言ってしまえる根拠は実は沢山出てくるのですが、その中でも千歌と梨子の二人のエピソードをたどるのが大変分かりやすいかと思います。

 

千歌は何かに熱中したいという想いを、梨子はもう一度ピアノに向き合いたい想いを抱いて(曜は千歌と何かをしたいという想いを抱えて)スクール活動を始めます。彼女らはこうした思いを駆動力にスクールアイドル活動を続け、ついに9人の仲間を得ることに成功しますが、続く1期10話にてこれらの想いとスクールアイドル活動を天秤をかけることを強いられるのです。この話は今でもクチャクチャしながらコーナーで差をつけて語れる位には僕は好きなのですが、それは一旦おいといて、この話の最後に千歌は興味深くも以下のようなセリフを言います。

梨子ちゃん、ピアノコンクールにでて欲しい。

(中略)

あの時(スクールアイドルに誘った時)私、思ってた。スクールアイドルを続けて、梨子ちゃんの中の何かが変わって、またピアノに前向きに取り組めたら素晴らしいなって。素敵だなって。

好き!!!!!!尊い!!!!!!

 

 

………はっ、ついオタクになってしまいました。今でもオタクですが。

 

こんな台詞は「いまが最高!」なμ'sからは絶対出てきません。なぜなら、これはスクールアイドル活動よりも1人1人の想い(1人1人のユメ)を優先するものであるからです。しかもμ'sのコンセプトは「みんなで叶える物語」ですから、そこで重視されるのは「個人」ではなく「みんな」なのです。

μ'sには言えず千歌には言えたこの台詞を受けて、千歌と梨子が作り上げた曲が「想いよひとつになれ」になります。つまり、この曲はスクールアイドル活動のインストゥルメンタル性を前提にして、それでも九人九色な9人の想いがスクールアイドル活動という道の上で「ひとつ」になる、そんな内容を歌った曲であるわけです。

 

想いよひとつになれ』はアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』のインストゥルメンタルな一面を視聴者に意識させ、初代『ラブライブ!』とは違うんだという事を決定付ける役割があったといえるでしょう。

 

現実のライブでの形

アニメにおける話は前章で分かってもらえたと思うので、ここからはライブでの話になります。

ラブライブ!というプロジェクトは様々な形でメディアミックス展開しており、他のメディアミックス作品と同様に世界観や設定がメディアによって異なります。「G's梨子」のような概念が生まれるのはそのためですね。

ただし、ラブライブ!におけるライブ演出に限ってはアニメとの徹底的なシンクロが大前提でした。ライブにおいてはメディアミックス展開で一番重要な「共通するキャラクター」の存在が薄く、その役割の多くを現実の声優さんが担当しているためです。シンクロ性を失った瞬間にステージに居るのはアニメで見た「キャラクター」ではなく現実の「声優さん」になってしまいます。

 

そういう意味でAqours 1st LoveLive! における『想いよひとつになれ』のピアノ演出は、その徹底ぶりに驚きこそしましたが、確かに従来のラブライブ!のライブ(ややこしいな)と全く同じものでした。劇中で梨子はスクールアイドルよりもピアノコンクールを優先したのだから、逢田梨香子さんは「踊らない」ことで見事に桜内梨子を演じきったと言えます。

また2日目のピアノ演出の失敗の際にも、何としてもアニメの桜内梨子を演じきるという逢田梨香子さんの心意気に多くのラブライバーが心を打たれた事でしょう。僕もそんな人間の1人でした。今でも僕はあのシーンを涙なしに見ることはできません。

このように4thライブまでは、声優さんがアニメの物語を3Dにコピーして演じることで、ア二メのファンがライブにおいても必ず楽しめる様になっていました。その手法はμ'sと同じでも、そこで演じられるのは間違いなくアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』のインストゥルメンタルな物語であり、『ラブライブ!』の世界観とは異なるものでした。

 

 

ところが、ここまで徹底的にシンクロを行った『想いよひとつになれ』という楽曲は、皮肉にもそのシンクロを崩壊させる役目を果たすことになります。

 

東京ドームで行われた4th LoveLive!において、『想いよひとつになれ』が1st以来1年9か月ぶりに披露されることになるのですが、そこでは1stライブでのものとは全く違う演出がなされました。壇上にピアノと共に登場した逢田梨香子さんは一礼をしピアノに向かい、『想いよひとつになれ』のイントロと共にピアノ演奏を始めます。しかし、イントロの途中でピアノ演奏が止まり、逢田梨香子さんは壇上のピアノから離れ、階段下にいる8人のメンバーと共に踊り始めるのです。

 

多くの人の目に深く焼き付けられたであろうこの名シーンなのですが、注目すべきはこの瞬間に今までの大前提が完全に崩壊していることです。先ほど述べたように、ラブライブ!のライブはシンクロ性によって「アニメのキャラクター」を「現実の声優」に投影しています。つまり、逢田梨香子さんがピアノから離れた瞬間、そこにいるのは「アニメ『ラブライブ!サンシャイン‼』の桜内梨子」から「声優ユニットAqours逢田梨香子」になったのです。

 

加えて注目すべきは、この演出はアニメにおける『想いよひとつになれ』の形を完全に否定するものだということです。なぜなら、アニメ『ラブライブ!サンシャイン‼』の桜内梨子は1期10話にてスクールアイドルとピアノを天秤にかけた結果として、Aqoursのリーダーである高海千歌の後押しもあってピアノを選んだからです。それはμ'sとは異なるAqoursAqoursたる所以であるインストゥルメンタル性を象徴する物語でした。しかし、ライブにおいて「アニメにおける桜内梨子」を投影された逢田梨香子が「ピアノから離れる」という行為はアニメ『ラブライブ!サンシャイン‼』の物語から大きく逸脱した行為であるといえます。

 

何が言いたいかというと、4thライブで披露された『想いよひとつになれ』は、アニメ『ラブライブ!サンシャイン‼』の物語を完全再現しないどころか、その世界観を真っ向から否定し捻じ曲げかねないものであった、ということです。これでは今までのライブとは違い、アニメが好きであればあるほど楽しめない、アニメファンがいたたまれない、そんなライブになってしまうのです。

 

声優ユニットAqoursの意義

今までの僕の主張に対してこう反駁する人がいるかもしれません。「声優のAqoursはアニメのAqoursの延長であって、現実の彼女たちはアニメのAqoursと同一じゃない」と。本当にそうなのでしょうか?確かに、二次元のキャラクターと三次元の人間が同一であるはずはありません。キャラクターよりも先に声優さんはこの世に生を受けているはずで、キャラクターについても声優のオーディションよりも先に考案されたものであることは疑いようがありません。しかし、「ラブライブ!サンシャイン‼」というコンテンツにおいては、少なくとも他のコンテンツと比べると、両者の差異は限りなく小さいのです。僕はそれこそが「プロジェクト ラブライブ!サンシャイン!!」というラブライブ!サンシャイン‼の製作委員会(俗にいう運営)の意図するところだと考えています。

今までは全てアニメという世界観軸に則って議論を進めてきましたが、ここで次元を1つ上げて現実のAqoursについて考えてみましょう。

 

声優ユニットAqoursの異質性

声優ユニットAqours』の9人は女優、歌手、ダンサーなど多くの出自があれど、アニメコンテンツにおける扱いは「声優」です。そんな声優ユニットとして彼女たちを見たときに、この9人は一般的な声優とはやはり多くの点で異質であると言えるのです。

 

まず、彼女たちはラブライブ!という超巨大な資金力とコンテンツ展開力をもつ(このことの検証はいらないでしょう)プロジェクトの最前線を担う声優でありながら実際の声優経験はほとんど皆無です。一般的な人気アニメなら少なくともメインキャラクターを未熟な声優に任せるという発想はないでしょうし、経済的な観点からしても育成経費を考えるとベテランの声優を雇った方が安く済むはずです。

また、何年にもわたって声優活動をしているにもかかわらず、『ラブライブ!サンシャイン‼』以外で主役どころか声優出演自体がほとんどありません。μ'sの声優は三森すずこさんや南條愛乃さんなどの声優が『ラブライブ』以外の作品でも活躍していたのに対して、です。Aqoursで一番声優活動していると思われる鈴木愛奈さんでさえ出演作品数で言えば活動時のμ'sに混じれば下のグループ、といえばその特徴がわかりやすいでしょうか。

 

それではどうして彼女たちはこうした特徴をもつのでしょうか。きっと人それぞれ色んな考えがあるかと思いますが、少なくとも僕は二次元のキャラクターを3次元の声優という人間と同一視させるためなのではないかと考えます。

 

この考えに基づくと、先ほどの疑問は説明されます。一般的な声優は既に存在するアニメキャラクターに対して声を吹き込み、アニメの中でのリアリティを際立たせるのが役割ですから、声優に求められるのは「いかに声だけでキャラクターを演じるか」です。テクニックを駆使し声の当て方を変えることでどんな役でもこなすことができますが、作品を離れたらその声優は等身大の人間でしかなく、そこにキャラクターは存在しません。

 

これに対し、Aqours声優はアニメ化前から生放送やイベント活動などを行い、声優=キャラクターという感覚を定着させてきました。出演の度に彼女たちは必ずAqoursと同じ制服を身に着け、キャラクターと自身の両方の自己紹介を行う時間が与えられました。ほとんど無名の声優を起用したのは声優にキャラクターを結び付ける際に邪魔となるイメージが少なくなるからでしょう。アニメで声を充てる際にもプロの様な技は必要なく、等身大の自分の演技を吹き込めばそこには自分に結びつけられたキャラクターの声が確かに入るのです(それでも素人には到底できないことなのは想像に難くないですが)。

アニメ放映後もコンテンツ展開が重要な間は他作品への出演を控えさせ、声優=キャラクターの関係を保ち続けてきました。「声優を見ればキャラクターが思い浮かぶ」それが声優ユニットAqours』なのです。

 

4thライブでの想いよひとつになれの意義

そんな声優Aqoursにとって、4thライブは挑戦的なものだったはずです。アニメとのシンクロに反してまで新たな演出を行うということは、アニメのファンにそっぽを向かれてしまう可能性が大いにあるからです。

 

そんな経緯で披露された『想いよひとつになれ』ですが、ここで注目するべきは、4thライブにおける同曲の演出はアニメの制作や楽曲の制作に関係ない、声優ユニットAqoursが生み出したひとつの物語であるということです。

 

もともとこの曲はアニメのために作られ、そこで一度完結した曲でした。それは梨子がスクールアイドルよりもピアノを選んだ物語であり、アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』を色付けた物語です。それをひっくり返し、新たな形を与えたのは声優ユニットAqoursの功績です。そしてそれがファンの間に受け入れられているのは声優=キャラクターの関係を強固に保ってきたからこそだといえるでしょう。

 

つまり、4thライブで披露された『想いよひとつになれ』という曲は、メディアミックス展開の1つの手法としての、声優ユニットAqoursが紡いだ独自のストーリーなのです。この手法がキャラクターの存在しないはずのライブでメディアミックスの手法足りうるのは、多くの手段で観客にキャラクターを声優に強く投影させることができたからです。そしてそのキャラクターと声優間の結びつきは、メディアミックスの主軸であるアニメの世界観を崩しても失われない程に強かったのです。

 

 

 まとめ

 『想いよひとつになれ』は確かにAqoursのオリジナリティがあり、サンシャイン‼の中でも最も多くの人を感動させた物語の一つでしょう。しかし、そのオリジナリティはアニメAqoursという視点から見た1stライブまでの形と、声優ユニットAqoursという視点から見た4thライブ以降の今現在の形とで異なるどころか、むしろ180°逆の性質を持ったものなのです。

 

 

 

ここまで読んでくれた方へ

まずは拙い文章を読んで下さってありがとうございます。

もはやブログとも思えないような堅苦しい言葉に長い文章になってしまったのは、ひとえに僕が今でもこの『想いよひとつになれ』という曲が心の底から好きであるからなんですね。もしここまでの文を読んで、僕がこの曲を嫌いなように感じたならそれは不正解です。残念でした。僕は一年前の4thライブで周りにドン引かれる程に大号泣しましたし、今でもあの演出は僕が一番好きな物語です。アニメロサマーライブにて想いよひとつになれが披露されたことも記憶に新しいですが、僕はAqoursの「STORY」としてこの曲以上にふさわしい選曲はなかったと思います。

 

今やネットではオタク達が立ち上げたブログだったり、Twwiterだったりで色んな人が意見を出しています。それは俗に言うお気持ちブログだったり、好きを叫ぶものであったり(←僕のTwitterは大体これ)、何かを非難するものであったりと多種多様です。それが悪いとは思いませんが、やはりそれで傷付く人がいたりすると何のための娯楽なのかと思わずにいられません。だから僕は一番好きな物語について、出来るだけ規範的な議論なしに考えをまとめる事にしました。

 

この記事を通して僕は、『想いよひとつになれ』という二次元から三次元にまでわたる一つの物語のことをこう思ってる、ということを言語化したにすぎません。それは誰かの考えを否定するものであったり、何かに対して良い悪いを議論するものであったりではなく、あくまでも僕のレンズを通した1つの物語のとらえ方として受け取ってもらいたいです。

 

僕はラブライブ!への熱が収まってきてからというもの、同じくメディアミックス展開をするレヴュースタァライトだったりの色んなコンテンツに触れてきたのですが、こうして他のコンテンツを知った今でも「大きな枠組みの中で紡ぎだされる1つの物語」というのは中々珍しいものではないかと思っています。プロジェクトが発足し、アニメが作られ、ライブ等でコンテンツを展開していくという手法は昨今のトレンドではありますが、一つ一つの物語の糸が強く結びついて大きなコンテクストを生むというその技法はラブライブ!にしか持ち得ないものなんじゃないかな、とドハマりした昔の自分を顧みてそう思うのです。

 

最後に一言。

 

 

ラブライブ!フェスが楽しみだぁ~!

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